4月17日

一気に沈んだ分、ゆっくりと正気を取り戻している。頭がぼんやりとして体もだるいけれど、無性に不安になることが無い。意識があるのかないのか、今日何していたか聞かれても覚えていなかったりする。

 

13~16時ぐらいまで色々移り変わりつつやっている刑事ドラマや謎の海外ドラマ(映画?)をぼんやりと眺める午後が好き。昔は体が強くなくて休む日が多く、そういう日は必ずただただ横になりながらぼうっとテレビを眺めていた。その影響もあるのかもしれない。今は別に何が悪いというわけでもなく、横になっている。どこかではウグイスが鳴いていて、暖かな風がカーテンを揺らして、風が鼻腔から私に春を届けてくれる。こういう午後はなんだか白昼夢に似ている。夢だから、何をしていたか答えられないのかもしれない。

 

穏やかに過ごす度に、私が穏やかに過ごしていいのだろうかという疑問もふと頭をよぎる。自分を不幸にしているのは紛れもない自分自身だが、呪いをかけたのは私の場合他者である。全てが終わった今、呪いを解くのも自由、苦しむのも自由だけど、突然かけられた呪いの中で自由にされたところで、どうしたらいいのだろうと迷ってしまう。今更元の自分には戻れない、けれど自分を責めてはいけない。考えれば考えるほど泥濘にはまって息が出来ない。今日が青空で良かった、そう思う。

 

あめが大きくなってきた。無条件に愛せる、愛しても誰からも非難されない対象がいるのは有り難い。ゲームや映画、小説やイラストや音楽などもそう言った意味合いが強いように感じる。いつでも自分勝手に一方的に愛せる。残念ながら人はそうはいかない。私は父に会う度に迷惑をかけない娘のように振る舞おうとして疲れてしまう。友達に嫌われてしまったのではないかと度々不安になってしまう。人付き合いは難しく、だから恋ができない。人を愛す崇高さが分からない。もっと一方的に色んなものを愛せたらいいのにと思う。恋じゃなくていい、もっと海を見つめるような気持ちで。届かない地平線に手を伸ばすような感覚で。

 

 

桜が散って、暖かくなり始め、夏が近付いている。夏はいつも調子が悪いので不安であるが、私が少し調子が良くなれば農業の手伝いにいけるらしい。祖父が小さな畑をやっていたこともあり、少し興味がある。死にたいと思うことが無くなることはないとは思うけれど、眼前に出てくるような状態が、頭の片隅程度に移動してくれたらいいなと思う。今は。また沈んだらせぱつまって死にたくなってしまうのだろうから、今は午後をなだらかに過ごしたい。欲を言えば、海沿いで。

疲れた

 

三年越しに遊びに行く予定だった子をドタキャンしてしまった。体が動かない、目眩、嘔吐、腹痛etc。泣きながら文章を打ったけど、彼女には伝わらない。伝わら無くていい。ただただ申し訳なかった。こういう時、どうやって謝ったらいいのか分からない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。行けない可能性が五分五分の今の自分では遊びの約束なんて、本当はしない方がいいのだろうとずっと思ってるけど、もしかしたらふっと死ぬかも?と思うと会える時に会いたいと思ってしまう。我儘。私の我儘に付き合わせるのを辞めるべきかもしれない。ごめんなさい。

 

毎日毎日、自分を傷つけるのを何とか必死に抑えている。体が商売なこともあるし、何より治らないといけないからだ。正確には治った振りを、しないといけないから。傷を見られて心配なんてもっての外で、人に迷惑をかけられない。ずっと良くなった振りをしながら、誰もいなくなった麗らかなはずの午後にひたすら泣いている。誰かに助けて欲しいと思いながらも、誰にも触れて欲しくないという矛盾をずっと抱えている。そのせいで、私が忘れてしまえば過去はまっさらだ。その方がいいとは思うけど、時折過去の私になんにもないことを思い出しては寂しくて悲しくなる。

私はいつまで鬱なのだろう。実は元気なんじゃないだろうか。甘えているだけで、働けるんじゃないだろうかとぐるぐる悩んでは自殺企図と動かない体に悩まされている。

けれど、いい事もあって最近昼食が概ね毎日食べられるようになった。あめがいるから、必然と餌をあげるために起きなくてはいけなくて、どうにか這い上がると意外と食事が取れる。先生も「いいですね」と言って褒めてくれていた。食事は大事らしい。

今は実家で暮らさせて貰っている。ご飯も用意してもらっている。ただ、この暮らしがいつまで続くだろうかと思う。母は気が変わるのが早く、今は私を可哀想だと言ってくれるが、いつ邪魔者に変化するかが怖い。寛解した時、あの時こうしてあげたのに!と言われるのが怖い。症状を馬鹿にされるのが怖い。昔、苦しい時に手紙を書いて母に渡した時「こっちの方が死にたいわ」と冷たくあしらわれ、笑われた声が忘れられない。大きな恩と足を引っ張る恨みで頭がおかしくなりそうな時がある。誰も信用出来ない。今は何も切迫することなどないのに不安と焦燥感があるが、誰にも相談できない。

 

死にたい。マンションに侵入出来ればと試すのが辞められない。首紐は無いから最近はしていない。ごめんなさい。皆が早く死ねばいいのにとは言わずとも、いつまで病んでるんだとか大袈裟だとか面倒臭いとか、私が居なくなれば解決するような心情を持っているような気がしてならない。ごめんなさい。私は、私を可哀想に見せている私が一番嫌い。死にたい。

 

これからどうするの?と聞かれる。私にアドバイスする人はみんな学校を出ている。母が、学校を出ていない人を馬鹿にしていた過去があるのを忘れていない。私はどうすれば、というより今どこにいるのだろう。社会の、どう言う立ち位置なのか。障害者?元気なのに?

午後に泣いてしまうので何か作業をとデイサービスの申し込みをした。来週まずは見学らしい。作業療法士の◯◯です。という自己紹介にどろどろと心臓が真っ黒に熔けた。私はなりたかったんだと思う、多分。大卒ももちろん欲しかったし、職を失わない資格も欲しかった。あの資格はどこに住んでも大丈夫な自由になれる資格だ。そして人を助けても良い資格だ。私はそれを放棄した、大馬鹿者だ。親不孝だ。これ以上、これ以上もう何かしでかす前に命を経ってしまいたい。大学は大変だったけど、通っている間は何かをしているという地に足が着いている感覚があって、それが私の唯一の柱だった。今は無い。立てない。

 

私が社会に出れる時一体何歳で、どんな立ち位置だろうと思う。先のことを考えているはずなのに、不安ばかりで終わってしまう。そうなると、死んでしまえば楽だなぁなんて甘えも出てくる。この先一生苦しむなら、小一時間苦しむ死の方がいい。そう思う。毎日、毎日、毎日。それに疲れてしまった。

 

稚拙な頭をかち割りたい。疲れたね。カーテンが揺れるのを見ているだけ

3月4日

卒業旅行の写真をよく見かけるようになった。それを見て春が近づいていると感じる。春は怖い。けれど、夏も怖い。秋なんて殆ど無いし、冬は嫌い。我儘の四季が回る。始まりも終わりも怖い春。一生無為でいたい。

 

部屋にいると死ななければならないと思うけれど、えいと思って外に出てみると幸せそうに散歩している犬と飼い主や、小さな子供と遊ぶ父親、帰宅途中の賑やかな学生がいて、な〜んだと思う。私は自分の生活に密接に向き合い過ぎている節がある気がする。本当はもっと軽くていい。柔らかな葉が揺れるような日々を送ることを自分で許してあげてもいい。多分。

 

日記が書けなくて、これも1週間ほどかけてちまちまと書いている。思考が上手くまとまらない。風邪をひいているからなのか、花粉のせいなのか。よく分からない。

先日友達が家に来てくれたが、この回らない頭で会話をしたと思うと酷く恐ろしく感じた。余計なことを言っていないことを願う。

 

猫や、恋人や、優しい家族など密接な関係にある人がいるのに死にたい人のことを、さては贅沢者では?と思っていたけれど、私もそっち側になってしまったことが悲しかった。死にたさは消えない。だって、当の本人である私が居なくなっていないから。贅沢者という要らない泊がついただけで、私は何も変わっていない。難しくて、寂しい。苦しい。

時折、ふわりと現世から足を離してしまいそうになるのを猫のご飯やトイレや遊びの時間に使って誤魔化している。地に足をつけることは中々難しい。他者のために生きることも難しい。これらはやはり申し訳ないけど、傲慢だ。私はまた私が許せなくなってしまった。

 

雨が降っていると落ち着く。理由に外に出なくていい口実が出来るからだというのに、私は傘を差して散歩に行く。とんだ矛盾である。でも、誰も歩いていない道を歩くのは嬉しい。世界が一人であれば、私は自分を傷つけることによって自分を守らなくてもいい、可哀想な振りをしなくてもいいと、そう思える。

 

 

はやく楽になりたい。海を見て暮らしたい。日記に書きたいことなんてない。文章が上手く書けない。

2月27日

私はずっと、自分の家族のことを家族と思えずに過ごしてきた。正欲という本の中に「地球に留学しに来ているような感じ」というような趣旨の文章があったけどまさにそういうような形で、どちらかと言えばホストファミリーのような感覚に近いような気がする。誰も信用出来ない、頼れない、甘えられない。そんな中で生きてきた。

 

そんな私にもようやく、本当の家族が出来た。ずっと飼いたい猫をようやくお迎えしたのだ。猫に関する権限は全て私、世話も全て私だ。その分責任は重たいけれど、みんなに「この子のお母さんなんだから」と言われると何故か幽霊のようだった足が急に輪郭を表して地についたような気がした。ずっと死と生の淵をさまよっていたけれど、この子を抱いた時に急に雲の切れ目からキラキラと光が差した感覚があった。生きなければいけない、と本当に、初めて思った。

 

この子の名前は「あめ」。猫を飼ったらずっとこの名前にしようと決めていたけれど、まさかお迎えの日も「雨」で「飴」色の子をお迎えするとは思ってもいなかった。これもきっと縁なのだと思う。

 

私は私を大切に出来ないが、あめを通して自分の事を大切にして欲しいとも言われた。

実現出来るかどうかは分からないけれど、この温かい気持ちのままずっと過ごせたらいいと思う。

時点は何も好転していないけれど、私にも私だけの家族がいると思うと今までひんやりと固かった心が柔らかく解けていくような気がする。もう痛みを持つほどの冷たさでなくなった時、私は本当の意味で私を大切にできるのだろう。私だけの家族もいる。

あめと二人、慎ましやかに幸せになれたら良いと願う。今日は、その意思表示の日記。

よろしくね、あめ

2月18日

送ってくれた誕生日プレゼントが届いた。美味しいチョコレート屋さんのアソートセットらしい。きらきらと梱包されたチョコレートたちは眩しくて、抱きしめたくなるほど愛おしい。二十個入っているのに、全て違う味なのだと言うから驚いてしまう。

そのチョコレートは、送ってくれた彼女のことを思いながら、毎晩一つずつ寝る前に食べるようにしている。奥歯で噛むとじんわり広がる甘みがうっとりするほど嬉しい。烏滸がましいと思うかもしれないけれど、彼女にもこの幸せが届いたらいいのにと思う。彼女には幸せに生きて欲しい。せめて、私があなたに貰った分位は。

 

また少し調子が悪い日が続いていて、でも散歩への焦燥感が激しく、ふらふらと歩いては自転車のベルに軌道修正を促されている。さながら夢遊病者のようであると思う。もしかしたら、そっちの方が幸せなのかもしれない。

 

私の家の近くには川が通っている。冬になると雑草雑林の伐採が行われて、河川敷はすっかり 見晴らしが良くなる。すると、今まで葉っぱに覆われてよく見えなかった猫の細道が見えるようになるので、私はたまにドキドキとそこを覗き込んで「にゃあ」と鳴いてみることがある。返答は特にないけれど、別にそれでよかった。食べかけのキャットフードが大きな葉の上に置かれているのを見て踵を返し、家に帰る。少し嬉しかった。

 

心が不安定なこと以外、日々が落ち着いている。三月、祖母の八十八歳の誕生日でその事で揉めているようだ。生まれてくることがめでたいと思っている人に囲まれるのは酷く疲れるが、私もなんだかんだプレゼントを選んでいる。おばあちゃんには長生きをして欲しいから。プレゼントの意味合いは、きっとあげる人によって変わるのだろう

 

彼女は何を思って私にチョコレートを送ってくれたのか。なんにも考えてないなら、それはそれでいい。そんなことを思いながら、私はまた奥歯でチョコレートを噛んでいる。

2月3日

最近また毎日泣いている。私の中の悲しみの海が騒いで、死んでしまえと波打つ。毎日自分を傷つけないと気が済まず、見張りが寝た頃に自傷をしている。痛いと気持ちがいい。その度に思うのだけど、これはただの趣味であって、死にたいどうこうは関係ないのでは?となる。どちらなのだろう、どっちでもいいけど

 

春が近づくにつれ、人々が動くのを感じる。春は別れの季節だというけれどそれは別れるべくして別れているだけであり、本当は出会いの季節のはずなのでは無いだろうか?と思う。新しい交友関係、上下関係。

私はいつも新しい場所に行く時、誰も私を知らないことにワクワクする。けれど、数ヶ月もするとその気持ちも萎れてしまう。顔見知りになるということは嬉しいことであり、同時に悲しいことだ。私は幽霊でいたい、浮遊物、なんにもない空気。誰とも別れたくない。別れるべき別れなど味わいたくない。だから誰のための存在にもなりたくない。

自殺に関して、病院の先生と、親の説法を受けながらそんなことを考えていた。あなたの体は一人では無いらしい。何を今更、馬鹿らしい。もうすぐ春が来る。

1月23日

恋や愛を文章化する時、私はいつも嫌な気持ちになる。文章に落とし込めるくらい、それらの輪郭を無意識には自分で掴んでしまっているかもしれないことが酷く恐ろしく、おぞましく感じる。動物としての本能のようなものなのかもしれないが、それが制御出来ないというのも恐ろしい話である。

 

私は、私の周りで愛や恋により壊れていってしまった人が沢山いることを身に染みて分かっている。反対に、それらに救われたという話は聞かない。愛や恋はいつも、人を変え、殺している。意志を、考え方を、感受性を、その他のその人が持つ全てを壊してしまう。こんなもの、自殺と何が違うのだろうと思う。愛や恋が許され、出会って別れる映画が社会に蔓延っているのに、自殺が許されないのはどうしてなのだろう。そんなに素敵なものなのだろうか、人を愛するということは。私にはまだ分からない。

 

人を消費せずに、愛する方法が知りたい。野鳥を愛でるような、その翼の自由を愛するような、そんな気持ちで人を好きになりたい。どこにも行けない私は、そんなことばかりを考えている。