夢のことを考える時、私はちょっぴり寂しくなる。私の頭が生み出してくれた緻密な映像が一晩程度で消費されてしまうこと、それを覚えてすらいないかもしれないこと。悪夢ばかり見ている人生だけど、忘れてしまうと思うと寂しくなる。夢がなにかの証拠になるとでも思っているのかもしれない。
将来の夢を語るとき、私は語る相手をよく見る。将来の夢と言われると難しいですね〜、と答える時もあるし、本当はカメラで食べていきたいと本音を漏らす事もある。どっちが良くてどっちが悪いとかではなく、一緒に夢を膨らませてくれる人に話したいだけだ。
この間のお客さんに、カメラが趣味の人がいて長い時間話してしまった。その方も趣味でやっているそうだが、見せてもらった写真は私が思うプロレベルで、その後に私の写真を見せるのが恥ずかしくなってしまった。
そんな経験があったのに、二月に個撮を申し込んだ。もしかしたら新しい一歩になるかもしれない、夢に触れられるかもしれないと思ってドキドキすると同時に、夢が割れてしまったらどうしようという焦燥感と義務感に駆られて怖い。
夢は夢でしかない。触れられない、どこにも証明できない、空想上のお話。苦しい時、現実と夢を常にさまよっている。生きることと死ぬことは、眠っている時間に似ている。
私はいつまでも眠っていたい。それが許される世界にいたい。