海に帰りたい

高速バスに乗ると、いつもワクワクする。
街の喧騒から外れて、森に囲まれた高速道路に入る。一日中曇りの予定だったのに、いつの間にか空には水色が差していて、もうすぐ夕になる日がバスの中に入ってきた。今の時期、山には桜が咲いていて桃色の川の様に華やかだ。窓際の席に座って、瞬きより早い景色を眺めているというのに、心は安息していて楽しみだけが満ちている。


苦しい時、私はいつも海を思い浮かべる。それはきっと私が小学生の頃、長い休みの時や年の瀬は決まって祖母の家に居たからなのだろうと思う。祖母の家は海から近く、ほんの少し道を歩くだけで海が見えてくるような場所にあった。
小学生は、私の幸福の象徴だった。無知であり、故に痛みに鈍く、笑って人に優しく居れば自分もいつか幸福になれるのだと信じている頃だった。あの頃は、たった一度も、死にたいなんて思ったことは無かった。
あの時の平和と穏やかな日を、自然と求めてしまうのかもしれない。帰りたい、と思ってしまう。海に、幸福だった頃に。私が失ってしまった何かを持っている、幼い頃の私に。

昼過ぎに出てきたから夕暮れには間に合わないと思ったけれど、丁度日が落ちていくのが見える時間に到着した。風も強くなく、程よく涼しい。ここの海でなくてももっと近くて安く行ける海岸はあったけれど、やっぱりここに来てよかったと心底思った。小さな救いだった。

写真みたいに、海に繋がる場所がある。名前は分からない。そこに座って、波を見ながら夜になるのを待っていた。はるまきごはんさんの曲の中で「日が沈んだすぐあとの藍が大好きなのは   あなたの瞳が僕の泣いてるとこ見えなくていいから」という歌詞があって、その部分が大好きだった。光なんて消えてしまったはずなのに、深い藍色が波と一緒に揺れていて、苦しくなるぐらいに綺麗だった。
海と違って、人には時間という概念がある。私は段々大人になる。前に来た時は飲めなかったお酒が飲めるようになって、私はずっと夢だった海岸で甘い桃のワインを開けた。海と私しかいない祝杯は、とても静かだ。放課後、一人きりで教室に残された様な気持ちと似ている。


夜になると、海の先には船の灯りがつく。これから出航なのか、それとも帰ってきたのか分からないけれど、地平線に沿うように丸い明かりが付いた。私は、知らぬ間に泣いていた。「帰りたくない」と零して、うずくまったまま動けなくなった。それでも、最終バスに間に合わなくなるからもう立ち上がらなくてはいけなくて、涙を乱暴に拭いてなんとか動いた。足を引きずるから靴に砂が入り込んだけど、お土産だと思うことにした。

帰りの高速バスに乗り込むと、去年のことを思い出した。あの時も、帰りたくないと泣いてバスに乗り込んだ。私は何も変わっていないのかもしれないのだと思うと、安心と不安で心がぐちゃぐちゃになる。変わらなくては生きていけないと思う反面、大切なことを捨てなければならないくらいなら、全てを知る前に死んでしまいたいと思う。
駅の近くになると、ポツポツと明かりが見えた。帰る前に見た地平線に似ていて、海はいつでも私の近くにいるのだと思った。
四月になれば、また死んだように生きていかなければならない。苦しいことが多く、泣く夜ばかりだけど、海を思い出して穏やかになれたらと思う。