汚い女

「汚女」
今も耳にべっとりとこびりついている呪いみたいな言葉。
体調の悪い日や心が不調の日に、時折思い出すことがある単語だ。


高校生の頃、私はストーカー被害に悩まされていた。
まあストーカーと言っても学内の同級生だったから、大袈裟だと笑われる事もたまにある。
最初は実害がなかったこともあって、学校側も対処のしようがなかった。だけど、確実に蝕んでいく恐怖に耐えきれなくなって、ある日母親に相談した。その時既に私はストレスでまともにご飯が喉を通らなくなっており、5kgほど体重も減っていた。夜ご飯は、吐いてしまう罪悪感から母親がスポーツクラブに行った後に食べていたから母はこのことを知らなかった。
藁をも掴む思いで学校のことを話した母親の反応は

「え?ストーカー?〇〇に?笑  好いてくれる人がいるだけよかったじゃん。」
「でもさ、〇〇のどこがいいのか、理解に苦しむわ〜こんなに汚女なのに!」

こんな感じだった。
それはまさしく絶望だった。まさか、寄り添って欲しかった人から罵倒を浴びせられるとは思ってもいなかった。
それも、産みの母親から。
汚女という単語は、この時初めて母の口から出たものだった。
普段怒られたり馬鹿にされることはあれど、何か比喩を使ったりされたことは無かったからだ。
その響きが余程気に入ったのか、相談したその日から段々と私を貶す時に使われていった。

その時はまだ家に姉が住んでいた。私は姉が大嫌いだったから、ストーカーの事は話さなかったのに、ご丁寧に母が説明したようだった。もちろん、汚女という単語をつけ加えて。
結果はきっとわかると思う。家中で、私を汚女と呼ぶ大合唱が行われた。世の中で言うとセカンドレイプというものだろうか?
比較してしまえば軽めだと思うが、あの時の私は心ごとトドメを刺されたような気分だった。
ただでさえストーカーで苦しんでいるのに、どうしてこんな屈辱を浴びせられなければいけないんだろう?悔しくて悲しくて、もういっそ死んでしまいたい毎日だった。
しばらく…半年ぐらいすると、姉も母も飽きたのか私を汚女と呼ぶことはなくなった。

その間もずっとストーカー被害は続いていて、いよいよとある日に私は学校内でその男に襲われた。
何とか逃げ出して、ストーカーのことを話してあった担任の先生がいる職員室に駆け込んだ。
実害が出てしまった為に、両者の両親へ連絡がいくことになり、私のことを母が迎えに来た。
教室に来た母は泣いていた。
恐怖すら忘れて私は真っ先に、どうして?と思った。
母は私に向かって、「こんなに危ないなら、ストーカーの事…ちゃんと言ってくれれば良かったのに」と言った。
私は怒りでどうにかなってしまいそうだった。

ちゃんと言ってくれれば良かったのに??

私はずっとずっと前から、本気で話していた。
相手にしなかったのは母だ。馬鹿にして、私を汚女と呼んだのは母だ。
意識と考えを他に向けなければ、今すぐにでも気が狂ってしまいそうだった。私は母と担任が話している間、ずっと壁のシミを数えていた。全部が悪夢の中みたいで苦痛だった。

しばらくして、母と担任にお礼を告げてから車に乗り込んだ。
帰宅途中、何があったのか私に話せと言った。担任から凡そ聞いているはずなのに、わざわざ苦しんだ本人に思い出して話せと言った。
話せる訳がない、どうせ馬鹿にされるだろうと知っているから。
頑なな私に涙も引っ込んだのか、母がため息をついた。
「あんたがそんなんだから、変なやつに漬け込まれるのよ。」
吐き捨てられた言葉に、今度は私が泣くことになった。特に慰められるでもなく、車をおりてからも号泣する私を尻目に母は一言も話さなかった。

その日から、母はまた私のことを汚女と呼んだ。
襲われた日のことは、母と姉の仲でネタのように消費された。
前に汚女と呼ばれていた時は苦しかったものの、本当に自分のことを汚女と思っていたというより信頼していた人に批判されていた苦しみだった。
けれど今回は実際に一度身を剥がされそうになって、体をベタベタ触られたことで、私は本当に汚い穢れた女なのかもしれないと思うようになってしまった。
髪の毛が乱れていたり肌が少し荒れるだけで、ただでさえ体が穢れているのに他も汚いなんてと酷く落ち込んで吐く日もあった。
汚女が誰かを想ってはいけないかもと、まともな恋愛も出来なくなった。母との対話も諦めた。貶されそうな時はイヤホンで爆音を流して凌いでいたせいで難聴にもなった。(けれどこれはストレス性のものだったので服薬で治った。)

ある時に、色んな事が積もり積もって重なってどうにか張っていた糸がぷつんと切れた。
どこかで死のうと思って、そこへ移動するために駅まで来た。
でも結局、電源を切ろうと思った時に最後にどうしても世界で1番大好きだった友達の声が聞きたくなってしまって、電話をかけたことでその時は自殺を踏みとどまった。
通話で、友達にたくさん話した。ストーカーにあってからずっと家で汚女と呼ばれていたこと、自分は汚いから生きていてはいけないのかもしれないということ。
家が近所だったのもあって、友達はすぐ駅まで通話を繋げながら来てくれた。私を見て、友達はすぐ私を抱きしめた。
私は汚いのに…と思っていたけど、その日から、友達はゆっくり、ゆっくりと私の凝り固まった糸を解してくれた。私の身が汚れていないことを証明し続けてくれた。
母親へも、友達が書面と会話両方で話してくれたことで汚女と呼ばれることもストーカーの話をされることもきっぱり無くなった。
おかげで今は、あの頃ほど自分に対する穢れの嫌悪感は殆どと言っていいほどない。
着たいワンピースを買えるくらいには回復した。

でも、だからといってその事実を忘れたことは一切無かった。

今日、NHKの性暴力被害者女性の記事を読んだ。
【「反省」も「償い」も、被害者のためではなく、加害者のために存在するものです。】
純粋にすごい言葉だと思った。
私はずっと、ストーカーのことも母のことも姉のことも、受容して許さなければならないと思っていた。誰からも謝られてなどいないけれど、どうにか受け入れて生きていかなければならないのだと思っていた。
でも絶対に許さなくて良かったんだとやっと今日気付いた。
だって傷つけられた尊厳はもう回復しない、私はもうまともに恋愛が出来ない。友達という周りに恵まれたからこそ良かったものの、私の命は無くなっていたかもしれなかった。
ストーカーは今更罪には問えないし、母と姉はそもそも犯罪を犯していないから記事のように認知の歪みをなくしてもらうような手筈は整えられない。本当に今更どうしようもないけど、あの記事を呼んで許さなくていいんだ私は悪くないんだと思えたことが何よりの救いだった。

何も解決していないし、何が書きたかったのか分からないけど、思い出したことを羅列した。あの勇気ある1人の女性が、私の中に呆然と巣食っていた罪悪感みたいなものを取り去ってくれた。
あの裁判がどうかいい形で終わって欲しいと思う。