支離滅裂

何かを書いていないと落ち着かないのに、何にも書きたくない。でも頭の中には常に言葉が渦巻いている。ルーレットのように当たりが出るまで、思考回路がぐるぐると回され続けている。


「死んだ後楽になれるかどうかなんて分からないんだからとりあえず生きてみたら?」

そんな内容の動画を見た。衝撃だった。

だって、死んだら何もなくなると思っていた。私が死後楽であるか苦痛であるかなんてものは、残されたひとが考え願う事であって私には関係ないからだ。人は死んだらそこまでだ。その後の全ては生きている人間のエゴでしか無い。

それを自殺を止める言葉にするにはあまりにも暴力的なんじゃないかと思った。遺される人のことを気にする余力があるのなら、人は死んだりなんかしない。


毎日が惨めだ。一日中死ぬことについてばっかり考えて希死念慮をこねくり回して、挙句こんなイチャモンを付けたって私は死ぬことすら出来ない。人が汗水たらして作ったものを調理して食べて朝起きて夜に寝て普通の人間みたいに生きている。どうしようもなくちゃんと生きている。

「早く死にたい生きたいけど死にたい」という友達のメッセージを見てでもやっぱり生きたいという気持ちはあるんだと落ち込むような人間でしかなくて、消えた方がいいような気はするのに、死ねない。


ここ9年間ずっと消えることばかりを考えているのに実際消えるために行動したことは無い。その程度なのかもしれないけど、その程度のことに永遠に苦しめられている。

塩が水に溶けるみたいに跡形もなく消えて欲しい。私の写真もLINEも何もかもを消したい。でもこうやって日記を書いて残している。

毎日矛盾を抱えている。死にたいと死ぬまでの苦痛が反発して生きることを選んでしまう。何も偉いことなんかない。

恥ずかしくて怖い。誰かの目にうつっている自分が確かに生きていることがわかってしまう。透明人間になりたいのに、誰かに抱きしめていて欲しい。でもこの誰かはきっと誰でもなくて、自分が自分のことを愛したいだけなのだと思う。

中学2年生の頃の日記を読んだ。今は忘れてしまった部活に対する恨み辛み、姉に対する怒りがちゃんと連ねてあった。私はあの日の私を抱きしめてあげることが出来る。だから日記を書いている。今こうして漠然とした苦しさを抱えて夜な夜な泣いているような自分も、数年後の自分に抱きしめてもらえるかもしれない。でもやっぱりそうするには生きないといけなくて、矛盾にまた泣いてしまいそうになる。


昔使ってたカッターナイフは引越しを機に捨てた。でも捨てなければよかったかもしれない。分からない。今はただ自暴自棄になっている。捨ててよかったのだろう。

綺麗な言葉を使えば綺麗になれると思っていたのに、今はそれすらもできない。焼け野原みたいに何も無いし何も植わらない。

これが記録として残って、生き残った私は何を思うんだろう。あわよくば鼻で笑って欲しい。理解しないで欲しい。生きたくなっていて欲しい。それだけが今の私の救いだから。