12月11日

今日はずっと楽しみにしていた、退院後初登校の日だった。やっと普通の人に戻れる、講義の遅れを取り返せる、先生に会える、どうにかなる……そんなことを思って眠ったけれど、現実はそう上手くは行かず、朝になったら体が動かなくなってしまった。

どうしても行きたかったのにと、一日中ずっと沈んで泣いていた。土日は外に出れたのに、甘えなのかなんなのか私にはもう分からない。食欲も失せて、せっかく最近毎日三食食べて生活リズムを整えていたのに、水すらも飲めなかった。

 

夕方になり母が帰ってきてからもずっと涙が止まらなくて、とにかく話をした。

わたしはずっといらない子だったのでは無いか、これから楽しくなるはずだった母の人生を邪魔しているのではないか。こんな娘、いなかった方が……一度口を開いてしまえば、もう止まれなかった。母は私が入院中、本当に心配してくれたことが身に染みてわかっていたはずだったのに、言ってはいけなかったのに、もう頭の中が滅茶苦茶だった。大学に行けなかったことで焦っているのを感じたが、不安を口に出してしまわないと腹には留めておけなかった。

 

結果として、それらは全て勘違いだったことがわかった。母は私を恨んでなかった。それは良いことだったが、次に今まで私と関わってきた人に意識が向いた。もう今は連絡の取れない大好きな人たち。その人たちとの楽しかったときや約束を思い出しては、寂しくて寂しくてどうしようもなくなってしまった。

 

不穏になる病気だと言われても私は病気だという自認がないから、とにかく不安で仕方ない。この訳の分からない不安が私を蝕む間、本当に気が狂って死にそうになる。いっそ殺して欲しいくらい苦しい。仕留め損なわれた虫のような気持ち。心が脳にあるなら、頭を仕留めればいいのか。もう訳が分からない。病院から出てくるべきではなかったのかもしれない。私は私を過信し過ぎていた。

 

もっともっと楽しい話をする日記だったはずだったのに、私はいつからこうなってしまったのだろう。誰も私を見ないで、軽蔑するくらいなら関わらないで。箱に閉じこもってしまえばいい。もう、寂しくも苦しくも辛くもならないで、白い病室の箱庭で死んでしまいたい。救いを見いだした私が愚かだった。そうだった、私の世界ってこんなに恐ろしかった。だから壊したかったんだ。

 

雨が降っている。窓を見つめて四肢を投げている。雨の日は夜が長い。助けは来ない。私は私を許さない。雨が一生降っていればいい

12月7日

日記に必ず写真を貼るようにしているけど、何を貼って何を貼っていないのかを思い出せない。被っていたらごめんなさい。

 

小説を読んでからずっと見に行きたかった映画と、たまたま広告でみて面白そうだった映画を見に行ってきた。やっぱり映画は映像が大きいし、音の立体感があって安心する。いつも行く映画館は貸切か、他に一人二人しかいないからど真ん中の席に座る。その時だけは、世界の中心にいることを、生きることを許されているみたいで好き。私は存在価値の体験をお金で買っている。

低音性難聴だし乱視だから字幕が無いと何話しているのか分からない時があったり、手紙とかメッセージがある場面は見えないこともあって不便だけどそれでも映画館に行くだけの魅力があの場所にはある。行ける時は映画館に行きたい。今なら大学生で割引入るし。

 

話は変わって、映画に行く前、ふっと思い立って写真を撮った。最近写真を撮る時に光を追うことを意識するようにしている。題材はそれにしようと四苦八苦したが中々いい光の写真が撮れて久しぶりに嬉しかった。写真が思った通りに撮れないと不安定になるけど、想像以上になると海に浮いてるような安寧とした気持ちになる。だから写真は好き。いつまでも撮り続けていたい。

 

来週からまた登校が始まるから今のうちにと焦る気持ちがなくもないけど、そんな時は深呼吸をしてゆっくり過ごしたいと思う

12月6日

一週間入院している間、おそらく十人位にはどうして将来その職業になりたいのかについて聞かれた。

そこまで崇高な理由がある訳では無いけれど、強いて言うのなら「一人で生きる必要は無い」と伝えるためなのだと思う。私の職種は五年働けばケアマネの資格が取れる。そうすれば、もっとその人の人生に関わることが出来る。私はそうしたいなとずっとぼんやり思っていて、それをきちんと形にして人へ対して口に出してみたら、結局行き着く先はそこなのだろうなとなんとなく気づいた。ただ、覚悟がまだきちんと決まっている訳では無いけれど。

 

一人は一人では生きてはいけない、なんていうことは本当のところ有り得ない。肉体的なところで言うならおそらくその言葉は正しいのだろうが、精神論で一人きりで生きていくことは可能だ。他人に人に心を許さなければいいだけなのだから。ただ、その事によって得られた自由と引き換えの、孤独によるどうしようも無い空虚を私は知っている。だから、一人きりでいたいわけではないけれど一人を選ぶしか無かった人の人生にそっと入り込めるような、そんな人になりたいと思った。誰かにとって優しくなりたい。私の人生はそのためにある。死ねなかったなら、なおのこと。

 

夢について、将来について考えることはまだ正直辛いけれど時折目指した理由について思い出して心を柔らかくしたい

死に損ないの海

11月26日、夜のこと。

 

「バカ!バカ!自分で死ぬなんて絶対しちゃダメ!!!!」

意識が戻った時、母はそう言って私の背を叩いた。睡眠薬を多めに飲んだからか首を絞めたからか、目は呼びかけられないと開けないほど意識は以前朦朧としていたが、やけに聴覚と思考はハッキリしていて、母の横に男の人が居たのに気がついた。

それは、母の不倫相手だった。

こんな人に助けられてしまったのかとか、なんで母が私が死のうとしたぐらいで泣いているのかとか、やけに仰々しくなってきた救助隊だとか、何もかもが嫌になって気持ち悪さと嘔吐きのまま吐き続けた。何もかもが絶望で、最悪だった。

私は、その瞬間本当に死にたかった。

 

救急車で運ばれた先の病院で見てくれた先生に「家に帰ったらまた死んじゃうつもり?」と言われたので、そうしたいですと言った。入院になった。部屋は一人部屋で、まっしろで、綺麗で、それがどうしてか苦しくて泣きたくなって、その夜と次の日は泣いて過ごした。

 

閉鎖病棟は思った以上に何も無い。実習で行ったような作業療法も無いし、主治医との診察は週に一回しか無かった。机一つの小さなデイルームには小説が二冊しかなくて、集中できない頭でパラパラと捲って読んだ。あとの時間は天井を見つめたり、デイルームから空を見つめていたりした。首はいつまでも痛かったけど、青空と夕日は病院から見ても綺麗だった。

 

その中でずっと考えた。私はあまりにも悲観的すぎると言うか、いき過ぎて被害妄想が激しいのではないだろうかと。

少し気持ちが落ち着いて、母に電話をかけた。母は「生きていて良かった」と泣いていた。

私はそれが本当に分からなかった。私が居なくても世界は正常に回り、機能する。代替は必ず存在する。周りの人もそのうちそうやって、何事も無かったかのように生き続ける。私が生きていて、そこまで喜ぶ意味が私には分からなかった。

 

主治医の先生と、母と、もう自殺行為はしないと約束した。

けれど、それは嘘だ。私はまたきっと死ぬために何かをするだろうと言うよ感がある。今回のことで、たくさん迷惑をかけると学んだけれど、それでも自分を許せた訳では無い。

私が私を許す日は来ない。きっと、永遠に。

 

帰ってきてご飯を食べてお風呂に入ったけれど、病人のような匂いが取れない。嫌だ、嫌だ。私は自分に甘いだけで病気ではない、病人では無い。幸せになりたいとは言わないから、せめて穏やかな日常を送りたい。

 

しばらくは入院生活の厳しさを思い出したり綴ったりしながら、静かに暮らしたいと思う。

遺書

私の目標はずっと、ひとりで海際の家で猫を飼って幸せに暮らすことだった。

それなら誰にも迷惑はかけないし、私は私の全てを抱きしめて許して、海を青を見ながら愛する猫と幸せに生きていけるだろうと信じて疑わなかった。

今は、もうそれは叶わない願いなのだと諦めている。まず、私は自立ができていないのだから海側の家でなんて住めるはずがない。それに、自分の世話もまともに出来ないのに猫は飼えない。自分のことは、どこに居ようときっと永遠に許せない。

小さな、小さな絶望が私を食べ尽くす。穴だらけにしていく。痛くて、苦しい。寂しい。寒くて、ただひたすらに涙が出る。

 

母に「どうしていつもそうなの」と言われた。その後、私が鬱になってからずっと我慢していたことをたくさん、たくさん言われた。迷惑をかけている自覚はあった。甘えていた。許されていいはずがなかった。私が、母を苦しませていた。生まれて来なければとこれ程強く願ったことは無い。部屋に戻ってからただひたすらに泣いている。私がいなければ離婚調停は上手くいっただろうか。母は不倫なんてせず、自由に好きな人と付き合ったのだろうか。もう何もかもが分からない。

 

私の人生はなんなのだろう。努力は一体どこに行ったのだろう。姉が無茶苦茶なことをした時に母の相談を聞いた事、何度も救急車に付き添ったこと、母の顔色を伺って生活したこと、父と母の間を取り持ったこと、ご飯の間にいくら悪口を言われても耐えてきたこと、いじめや性被害も結局一人で乗り切ったこと。上げだしたらキリがないくらい、私はずっと正しくあるために我慢をしてきたつもりだった。でも、そんなことは全部どうでもよかったんだと分かった。虚しい。私は最初から居なければ良かったのだと、疑心が確信に変わった瞬間だった。

 

出来損ないで生まれてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。綺麗になりたかった。愛を信じたかった。心を許して、人に相談とかしてみたかった。話してみたかった。私は、私は……結局生まれてくるのは「私」。その時点で自分のことしか考えていない。視野があまりにも狭い。最低だ。人のことを考えるふりをしながら、結局自分のことだけで、そんなもの。居なくなればいい。死んでしまえばいい。そうしたら、贖罪もこれからの苦労も全部消える。

 

だから私は死ぬ。死ぬためのことはする。許される為に。そしたら私は幸せになれる。我儘なら、最後の我儘も許されたい。海に遺骨をまいてもらったら、ようやく私は幸せになれるのかな。周りも、もう苦労しなくてよくなる。これで、これでいいんだ。きっと。私はそう信じている。生きてきた間ずっと愚かだった私の最後選択が、どうか正しいものでありますように

頭の中

もしも私が私以外のものになれるのだとしたら、今すぐに海に住むものになりたい。そんなことを考えながら、殆ど人がおらず貸切状態の露天風呂で足をばたつかせて遊んでいた。私は思い返せば昔から泳ぐのが得意な子だった。生まれる水を間違えたのかもしれない。羊水と、海水。母と、母なる大地。

 

衝動的に海を見に行った。元々なんとなく行こうとは思っていたものの、昨日お酒を飲もうと決めた時点で叶わない夢だと諦めていたが、昼頃に目を覚まして15分ほどで全ての支度を済ませて飛び出すように家を出た。高速バスには丁度日が差し込んでいて暑かった。一番前の席しか空いてなかったけれど、見晴らしが良くて嬉しかった。でも、帰りはやっぱりいつも通りポロポロ泣いて帰った。

 

海に行ったのに本当に苦しい。気が狂いそうで、話したりこうして文字を打ったりしていないと自殺衝動が抑えられない。私はいつからこうなってしまったのだろうと考えると、また悲しくなってしまう。辛いことばかりをつらつらと書き連ねる文章は面白くないけれど、私が生きた証にはなってくれるはずだと思っている。死にたい、しにたい、つらい。どうしたらいいのだろう。頭が混乱している。苦しい。

 

皆が幸せになってくれれば救われると思っていたけど、それは多分大きな間違いだ。星が見えない。呼吸が苦しい。楽になりたい。

 

こんなことを言ってはいけないと分かっているけど、末期の癌患者と私のような死を渇望する人の何が違うのだろうと思う。痛くて苦しくて、もう死んでしまいたい救われたいと願う気持ち。きっと一緒なんだって

 

優しくなりたい。誰にも愛されたくない誰かを愛してみたい信用したい温かい光になりたい。

 

明日死ねたら誰かに褒めて欲しい。死ねなくても、抱きしめられたい。

11月17日

誰もいない道でそっと息を吸うと、何となく救われたような気がする。

嫌なことが続いていて、私の人生ってなんなんだと思ったけど「幸せになりたい」と呟いてみたらすんなりと受け入れられた。

 

今日、這うように授業に行った帰り道、授業担当ではない先生に「◯◯さん!今日も来れてたんですね!良かったです」とすごくにこやかに話しかけて貰った。ほかの先生は私(というより多分生徒全員)を無視するのに、本当に律儀で素敵な人だと思う。時々、あまりにも優しすぎて眩しくて目を瞑りたくなってしまう。でも、こういう人になりたくてわたしは生きてきたんだよなぁと思い出させてくれるから、目を逸らさずに居たいとも思う。

 

優しくなりたいと思うのは昔から母に呪いのように「人に優しくしなさい」と言われていたからということも勿論あるけれど、私が触れてきた作品の中で強く惹かれるのが優しく強いひとだったからということが大きい。憧れるような人達は、全員桜に似ていると思う。桜は儚いというイメージより、その幹の太さに目が行くことが多くて、美しく咲きながらもそのどっしりとした木に憧れていた。

写真を見返しながら、先生は桜に似ているなあなんて思いながら帰ってきて、久しぶりに落ち込まなかった。こういう日々を少しずつ重ねて、小さく小さく幸せになれたらいいなと思う。でも、私だけ幸せになるのも嫌だから先生も友達もその辺の犬を散歩してる人とかも、皆が温かく過ごせたら良いなと願う。